青梅


初日はオープニングセレモニーとシンポジウム「アートに何ができるか?」。
パネラーの作家さんがそれぞれの震災体験をからめ、アートの定義づけから作家と生活者とのクレバスについて多岐にわたって纏まらないよう展開していく。美術にかぎらず、こういうシンポジウムは「結論でなき」を前提として出発しているので集中して聞いていないとすぐ眠くなる…。後日カタログに収録されるので、あまり下手なこと言えずに言葉を注意深く選ばれてるせいもあると思うけど。
ただ終盤に入り、丸木夫妻と藤田嗣治マチスピカソと具体的な例をあげての論争(ってほどでもないか)になり、急に活性化された。最初からこのテーマに絞って始めた方が中だるみしなかったよなぁ。
シンポジウム聞きながら、震災以降の美術の違和感の正体っていうかなんかわかった気がして、それは世間では御用学者、御用マスコミ、御用市民なんてな僭称があるけど、現代美術家はそこに当て嵌まらないってことを自明としている、あるいは、自分たちはいつも無垢である、っていう開き直りというか特権意識というかそんな空気がある気がする。
ある作家さんは、今後、表現活動において、有形、無形のオブセッションがくるのは好ましくない、っていわれたけれども、そもそも無形のオブセッションは自覚もなく静かに自身を浸食するんではなかろうか。
第二次大戦の戦争画家たちは国家による圧力や画家としての本能的欲望、絵を描ける喜びに駆り立てられ描いただけじゃなく、もっと自然に葛藤も煩悶も愉悦もなく淡々と加担したんじゃないだろうか。御用画家として。
で、それって現代も通奏低音としてないと言い切れる根拠はないと思う。
あるいは別な言い方をすれば、放射能は分け隔てなく汚染しているのに自覚症状はない。動植物だけでなくシステムとしての政治や経済、美術までも汚染されているはず。「ただちに影響は出ない」だけで。
…とここまで書いて思ったのは、自分は結局今までさんざん繰り返されて来た画家の倫理の問題しか捉えきれていないなぁ…。
明治期に建てられた女郎小屋のようなつくりの恐ろしく古くて汚いファンシーな居酒屋(?)で3次会。終電で帰る。