荒涼とした風景


数日前の実にしょうも無くつまらぬ何ら生産性のない飲み会の疲労が抜けず、人生60年と考えるともう残りの人生であと僅か1,000回位しか飲めないのだから、今後その様な不毛な飲み会で浪費せず一回一回を大切にしようと心に誓う。
べっとり身体に染み付いたくさくさ感は日を置いても抜けず、もっと楽しい事、幸せな事を考えたい、感じたい。鬱々、ゴロゴロしているうち、そういえば子供の頃、レンタルビデオ屋で借りて見た「ミリィ」という映画、ストーリーがロマンチックでファンタジーでイノセントで、さらに主人公が妖精のように美しく、体の奥底でやさしい塊が生まれそれが暫く小刻みに震え続けるような、内側から光が満ち溢れるような体験をもたらせてくれた映画のひとつだった、と思い出した。今必要としているのはこういうジューブナイル映画による魂の洗浄、浄化だとおもった。
今の時代、わざわざレンタルビデオ屋に行かずともインターネットで思い立ったときに視聴出来る。ビバ。

物語は、父を癌で亡くし、母と弟と新しい家に越してき、新生活を始める少女(ミリィ)と、隣に住む自閉症の少年(エリック)との心の交流を通して芽生える恋の物語。そしてその少年は実は空を飛ぶ能力を有している。

…ところが見終わって、ときめきとは別の感情、感想が心を占めた。どういうことか。
当時は二人のロマンチックな前景にしか気がいかなかったが、登場する人物は揃いも揃って皆が皆、傷つき疲弊している。いつも底抜けに明るく振舞う軍事おたくのミリィ弟は、実は情緒不安定で、嵐の中、ずぶ濡れになりながら庭に埋葬したソルジャー人形を掘りおこし探し続ける。ミリィ母は、死んだ亭主の悲しみが癒えないまま始めた新しい仕事に慣れることが出来ず、子供たちにそのストレスをヒステリックにぶつける。隣に住むエリック叔父は、兄弟夫婦(もしくは姉妹夫婦)を飛行機事故で一度に亡くしたうえ、1人遺された自閉症の甥と2人で暮らす事を余儀なくされ、アルコール中毒の海を漂っている。またミリィ弟をいつも理由なく追いかけまわす近所のサディスティックな少年とその姉も、背景は明らかにされないものの大きな闇に飲み込まれている。さらにエリックに同情と理解を示す学校の担任は、忘れ得ぬ過去があるのか養護施設を毛嫌いし自宅での療法に執拗にこだわり続け、ミリィとエリック叔父にその監督責任を押し付け続ける。(ミリィにはおどしともとれる単位取得の取引までして)

今、全てはミリィの夢だったのではいう考えが浮かんでいる。身も蓋もない言い方をすれば、精神のバランスを崩し別の世界を彷徨しているのでは、と。というのもミリィが公園で橋から落ちて意識を失い、入院するシーンがある。混濁した意識の中、エリックが空を飛び自分を救ってくれたと家族に医者に言う。皆、心配し、ついには精神科医が現れカウンセリングが始まるが、ここで初めて父は癌で死亡したのではなく自死した事が明らかにされる。医者はミリィにこう言って慰める。「自分で自分に嘘をつく事で自分を守ることもあるのよ」。ミリィは医師に抱きつき、号泣する。猜疑心を抱きながらのやり取りの中、突然、全幅の信頼を寄せるのが唐突に感じるが、こう考えると辻褄が合う。つまり、精神科医とのカウンセリングはこれが初めてではなく、ずっと長い間の積み重ねがあった上での事だったのではないだろうか。ミリィは父の死後、実はずっと入退院していて、エリックとの心の交流も空中浮遊も全ては彼女の妄想、幻覚で、それが初めて露呈した、引き戻された場面だったのではないだろうか。
原題の「the boy who could fly」に対して邦題は「ミリィ 」になっている。彼女の名前がタイトルになっているというのもエリックの不在を表しているといえないか。
物語のエンディング、エリックが空に飛んで消えた後、彼女等は憑き物が落ちたように快復し、平穏な日常生活を営み始める。

…しかし、自分はキラキラした気持ちを求めて映画を観たあげく、何とさもしい感想に支配されているのか。