濾過されない経験


荒野へ ジョン クラカワー
裕福な家庭で何不自由なく過不足なく育ったアレックスは、卒業と同時に、学歴社会、消費社会に敢然と背を向け、親の庇護、束縛から決別し、アラスカの未開の土地で、原始の生き方、つまり自らの手と足、才覚で食物を確保し生活することを宣言し実行にうつすが、実際にはアラスカの入り口、ほんのとば口でたくさんの日記メモを残して死んでしまう。その為の準備として必要最低限の金銭を得るために、農場で働いたり、ファーストフード店で季節労働者として働いたりしながら、その出会った人々に、強烈な印象を残していく。
退役軍人のフランツ老人は、映画ではその後は描かれなかったけど、実際は、アレックスのメッセージを受け止め、今までの行き方を改めて新しい、野宿をする行き方を実践し始めている。
多分、彼は「本物」だったんだと思う。彼の行為を徹底的に批判し、ひとりよがりの愚行、語るに足りない無知蒙昧な若者におとしこみたい人々は、その感性に怯えていたのだろう、彼を認めることによって自分自身が培ってきたものが根底から覆される恐怖におののいたのだろう、自由に嫉妬する自らの卑小さから目を背ける為の攻撃だったのだろう。
それにしても、ナイランドの郊外に、ヒッピー、ヌーディスト、薬物を摂取してハッピーになる非生産的人々、避寒労働者、退職者、犯罪者、追放者、貧困者、老若男女雑多な流れ者が集まってくる吹き溜まりコミューンが70年代ではなく90年代まであったということに驚く。とすればそれはまだあるのだろう。
何か、心の奥底ので眠ってしまっている、無垢で震えるようなやわらかな感性が共鳴し呼び起こされたような暖かい気持ちに包まれる。願わくば、もっと若い頃、10代の頃に出会いたかった。