women


昨年、EJベロックの娼婦の写真を参照とした作品をつくったのを契機として、女性(のようなもの)をモチーフに描くことが多くなり、どうも自分でもよく訳が分からない、というのも、学生時代は裸婦(人物)やら静物やらなんてのは、予備校受験絵画の延長線上であり、団体系絵画の悪しきルーティンであり、西洋をパクってきたダサい近代日本の象徴で、どうにかしてそこから逃げだしたい、おおげさに言えば倒すべき敵であったのに。
ときおり作品を説明する中で、「蜜蝋」がミツバチの作り出した異なる物質、生まれ変わりや再生のメタファーだとすれば、「シルク(絹=蚕)」スクリーンもまたその復活するという言葉の響きを内包しているから、その響きは自分のドローイングのようなものを版画に置き換え(最初の手の熱や感情の高ぶりは殺され)似て非なる別の生を生き直すことと重なるわけで、制作にはフランケンシュタインのような少し悲しい気配が貫いている、と駄洒落のようにこじつけているけれども、そのこじつけをもう少し広げれば、野坂昭如が書いていたように女性は出産することで自らを脱皮し生き直している、一世代ごとに再生されているとみえないかと、とそこから女性(のようなもの)がモチーフ(=モチベーション)としてあるのかもしれないです。
自分のことは自分が一番よくわからないから、もしかすると将来、富士山しか描かなくなるようなこともないともいいきれないです。